家庭円満

 「今日、お父さん早いけん、もう帰らなあかん。」
ごめんねと言いながら名残惜しそうに公園を出る加奈を見送って、隣でしゃがみ込む樹里音に目をやった。いつもの二人が取り残された公園は、もう薄暗い。学校終わりに買った炭酸飲料も飲み切ってしまった。しゃがみ込んだ樹里音は加奈のことは見ずに、地面に男と女の絵をかいていた。
 公園から道を挟んだすぐの団地に、樹里音は住んでいる。3月の夕暮れはまだ肌寒かったけれど、私たちはしばらく公園で座り込んでいた。お腹が空いたらコンビニがあるし、本当に寒いときは誰かが家に呼んでくれる。二人でいればとても自由だ。将来一緒に女優になる約束をして、樹里音はその1年後に本当に東京の事務所に入った。
 私たちの地域は、小学校から中学校に上がってもクラスは増えない。同じ顔触れのまま9年間を過ごす私たちは、怖いものを知らないまま高校生になる。たった4クラスの同級生が、世界のすべてだった。
 その日は、団地の駐車場でアメリカンドッグを食べている時に、おばさんが帰ってきてバイバイした。車からよちよち歩きの弟と、両手にいっぱいのスーパーの袋を下ろすお母さんを見て、食べかけのアメリカンドッグを私に渡しながら「あげる」と笑顔で言って走っていった。チラリと私の方を見たおばさんは、樹里音に背を向けたまま見えなくなった。私も家に帰る時間ということだった。
 電気をつける。お母さんが昼間に作ってくれてある、いつものご飯。レンジで温めるのも面倒でそのまま箸をつけた。お母さんは、チンしない私を見つけるといつも怒る。温めないとおいしくないらしい。食べるのは私なのに、お母さんはいつも怒った。固まった油も、底に溜まったお汁も、私は気にならなかった。三角コーナーに、真っ黒になったたぶん野菜だったものが捨ててあるのを見て、無理しなくてもいいのにな、と思った。

 あの時のお母さんと同じ年齢に差し掛かった私は、それなりにうまく家事をやれる。もうすぐ夫になる人は、そんな私をよく褒めてくれた。「なんでもできるね、すごいね。」と言われるたびに、誇らしくて大好きになる。洗濯も掃除も、見つけた家事は全部やった。おやすみの日には布団を干して、時間があると料理に勤しんだ。唐揚げも肉じゃがもなんだって作れる。クリームコロッケだって手作りする。おいしいおいしい、と食べてくれる大好きな人と、もうすぐ夫婦になる。家に帰るといてくれるのだと思うだけで、毎日ワクワクする。仕事終わりにスーパーに寄って、彼の好きなものを思い浮かべる。幸福な気持ちと、混み合う時間の店内が、私をみんなと同じ家庭を持つ一人として認めてくれているようで、どれだけレジに並んでも楽しかった。新商品のポテチと、お気に入りのチョコレートも買った。ソファに座って食べる二人は、絶対に笑っている。私たちは幸せだ。
 スーパーから帰るともう家に電気がついていて、出かける準備をした彼が鏡の前に立っていた。「晩御飯、すぐ作るね」というと、ソワソワしながらソファでスマホゲームを始めた。お米を炊いていなかったので、すぐに仕掛けて早炊きでスタートする。早くて35分かかる夕食までの時間を、彼は待てなかった。「もう行くわ」とだけ聞こえてそのまま、玄関の扉が閉まった。まだフライパンの上で火の通りきっていない食材と、二つずつ用意した食器、つけっぱなしのテレビの音が響く部屋。大丈夫、私たちはもうすぐ結婚する。
 どうしようもないので二人分のおかずを盛り付けて、多くよそった方にラップをかける。夕食時のこの時間に、電話してもいい友達なんていない。きっとみんなは家族分のご飯を用意して、騒々しく食べているところだろう。元気で明るいユーチューバーを見ながら、ひとり分をしっかりと食べた。
 
 「食べた後の食器、結局私が洗うんよね。」
結婚して5年になる真紀は、息子と夫と三人で暮らしている。夫の実家の近くに親戚の土地があったとかで、結婚してすぐに息子とマイホームを手に入れた。新しい家は天井が高くて、白が基調の明るいインテリアでいつも私を迎え入れてくれた。3歳の息子がいるとは思えないほど片付いた部屋は、インスタで見るような理想の家庭そのものだった。
 真紀の夫は自分で会社を運営している。家事もやってくれるけれど、ついつい後回しにする夫を待てずに、いつも真紀が手を出してしまうらしい。のんびりしているリビングの机に食べ終わったお皿が残っていることも、乾燥が終わった洗濯物がしわしわのまま冷めていくことも、真紀は気になって仕方がないようだった。
 「やるやるって言われても、いつやるのってイライラしちゃうんよね。忙しいのもわかるから言えないけど、タイミングってあるやん?」
 高収入で優しくておしゃれで完璧に見える夫でも、結局妻は腹を立ててしまう。どれだけ自分の理想を手に入れても、結局は腹が立ってしまう。休日に趣味の集まりに出かけていく夫にも、観葉植物にだけ度を過ぎたこだわりを持っている夫にも、息子が半ズボンで草むらに入って行っていくことを止めない夫にも、たまに作る料理で勝手に食材を使ってしまう夫にも、腹が立ってしまう。いつもさらっと愚痴を言って、そのあとは何でもない話で笑いあう。不満がある日常は真紀にとって当たり前で、いつも幸せそうに笑った。結婚も出産も当たり前で、真紀はとても素敵な女性だった。

 23時を過ぎたころ、彼は帰宅する。ソファの真ん中に座ってポテトチップスを開けた。一緒に食べようと私を誘う。いつも私は右隣に座って、2,3枚だけ食べながら彼の話を聞く。嬉しそうに話す今日の出来事を聞く時間が、私は好きだ。今日も帰ってきてくれた。今日も一日楽しんで帰ってきた。彼の一日の最後に話を聞くのは私であることが、たまらなく嬉しかった。この事実は変わらない。私は結婚するのだから。
 いつも先に眠る私が寂しいから、という理由でリビングに置いたベッドの中で、なるべく壁に沿って目を閉じる。二人には狭いセミダブルのベッドは、私がひとり暮らしをしていた時から変わっていない。新しいのが欲しいねと言うと、また見に行こうと優しく笑うだけだった。一人用の冷蔵庫も、18歳の時に買ったオーブンレンジも、私が見慣れたもののままだった。真紀の夫なら、きっと買い替えているだろう。そんなことが頭をよぎった自分に驚いた。

 樹里音と再会したのは15年ぶりだった。インスタでたまたま私を見つけたらしい。猫の写真ばかりを投稿している樹里音は、母親と二人で暮らしていた。弟は大学に進学し、もうすぐ就職する。仕送りと学費のほとんどは樹里音が払っていて、東京に本社があるそこそこの企業に就職が決まった弟は樹里音の誇りだった。先月は母親と二人で温泉旅行に行ってきたと、変わらない明るい笑顔で話す姿が、なんだか私に重く残った。弟が就職したら時間ができるから、そしたら旅行とか行こう。と軽く約束をして、本当にそのタイミングでまた連絡が来た。樹里音が母になるという連絡だった。
 相手は妊娠を知ったと同時に付き合い始めた、二つ上の職場の人らしい。とても穏やかな笑顔をする人で、私の話を聞いたらしくSNSで連絡が来た。樹里音の友達とも仲良くしたいと、何でもないやり取りをした。私が好きなカフェと、好きな音楽の話をしただけだった。

 結婚の話をしてから、数か月が過ぎているのに私たちは何も変わっていない。入籍の日をいつにするのか聞いたら、「大事だからしっかり考えないと」と私を撫でた。簡単な優しさが私を黙らせる。
 その日も彼は夕食を食べてすぐに出かけた。ちょうど観たい映画の配信が始まったところだったので、一人でゆっくりと観ることにする。ソファの右側にゆったりと座って、135分の時間をすごす。終わったころには23時が近づいていた。おかえりを言いたいから、お風呂に入るのは少し待とう。ワイシャツにアイロンをかけながら、ぼんやりと入籍の日をいつにしようか考えた。
 彼が帰ってこない。興味もないショート動画を流れるままに見続けて、0時が過ぎたころに電話をかけたら「今ちょっとごめん」とラインが入った。「どした?」と送った私の文字は既読になったまま宙ぶらりんなまま、2回かけた電話も彼を呼び続けるだけだった。「ごめんね」と30分後にラインが届いてすぐ、かけた電話はワンコールで切れた。そのあとは電波が届かない。出かける先も、いつも出ない電話も、私は問い詰めたことがない。私が負担になるのなんて絶対に嫌だ。帰りたい家、帰りたい家にいる彼女、帰りたい家にいる妻、帰って会いたい私でいたい。いつも最後に話すのが私であり続けるために、私は彼を許す。今日帰らない理由に、気づかないフリがいつまでできるのか、わからなかった。彼のお気に入りの香水を捨てた。

 陽介と会ったのはたまたまで、ひとりカフェで時間を潰している時だった。
 「樹里音のお友達の…?」
 人懐っこい甘い声の、写真通りの穏やかな笑顔だった。思ったよりも背が高く、緩いスウェットでも清潔感がある。ちょうど次の予定まで時間があったのと、話しやすい陽介の相槌にすっかり心を開いてしまった。私がカフェを出る時間まで、ふたりの会話は途切れなかった。
 それから一週間ほどたって、陽介から聞いてほしい話があると連絡が来た。前に会ったカフェで、私たちは待ち合わせることになった。
 相変わらずふわりと優しく笑う陽介は、最近の樹里音の情緒に付いていけない、と寂しそうにして見せる。私の表情を伺いながら、力なく笑う姿に誠実さは無い。甘えた声とだらしない話し方ですんなりと懐いてくる。きっと私が放っておけないことを、初めてカフェで会ったあの時から陽介は知っていた。こんなお父さんを迎える樹里音も、こんな私を妻にする彼もかわいそうだ。私たちは当たり前のように、そのあと二人きりですごした。

 いつも通り、23時に彼は帰宅する。私の「おかえり」もいつも通りでうんざりする。こんなに簡単に嘘がつけてしまう関係に、家族なんて勤まるのだろうか。彼は今日も嬉しそうで、私もなんだかふわふわとしていて、くっつきあって笑う私たちは、幸せに見えた。

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