2軒隣が火事になった。 その日、わたしは小学校を休んでいて、母と2人だった。 細い路地を挟んだ向こう側、大きな炎が2階の窓から見えた。 母は私をギュッと抱きしめて震える声で、大丈夫だからね。と言った。 実家の2階、お姉ちゃんの部屋から2人抱き合ったまま、なかなか消えない炎と匂い、 騒がしい音に囲まれて、いつまでも、炎が消えなければいいと思った。 それから数日たった夜、帰ってきた母はわたしが眠っている部屋のドアを開けて言った 「 わたしは後悔をせずに今まで生きてきた。 ただ、後悔がひとつできてしまった。 火の粉が舞おうが止められようが、 あのとき近くまで行って 大きな声で『おばちゃん!』と叫べばよかった。 それだけです。 おやすみ。 」 おばちゃんとおじちゃんと、大きな黒い犬。 助かったのは大きな黒い犬だけだった。 ベッドで2人は眠ったまま、真っ黒焦げになっていたらしい。 小学校に行く時間に、いつも挨拶をしていたおばちゃん。 あの時間に眠っているわけがなかった。 母が叫んでも、きっとおばちゃんは眠っていた。 黒い犬のリードは外されていた。 いつも眠る前には、母に手紙を書いた。 今日あった出来事を、わたしなりにおもしろおかしく書いた。 学校で褒められたこと、友達と仲よく遊んだこと、 キラキラのペンをたくさん使って、母が読んでくれるように工夫した。 なるべく愚痴は書かない。 そうやって玄関にメモスタンドを立てて、ひとりで布団に潜った。 あの頃の母の年齢に近くなったわたしは、まだ後悔を知らない。 後悔なんか知りたくない。 母にはまだ、なれずにいる。
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