あるところに、普通の村がありました。村の人たちはそれぞれにニコニコと暮らし、たまに喧嘩したり話し合ったり、お祭りを開いたりしてすごしていました。
そこに、ゲロガメが暮らしていました。ゲロガメは、亀のような甲羅を背負った蛙のような見た目をしています。その愛らしい瞳と人懐っこい笑顔は、いつも村のみんなを元気づけていました。
ゲロガメが中学生の頃のお話です。村に知らない人がやってきました。家の中に勝手に入り、大切なものを盗ったり壊したり、村の人たちは大変困りました。大切なものが無くなると、喧嘩が増えました。毎年のようにお花が咲いても、木の実が美味しく実っても、誰もその話をしなくなりました。木々や大地が話しかけても、村のみんなには聞こえないようです。ゲロガメの瞳も笑顔も、まるで無視されているようで寂しく悲しそうです。
そんなある日、村長の大切にしている写真が盗られてしまいました。体調を崩して寝込んでしまった村長は村のみんなに言いました。
「ここにいては不幸になってしまう。幸せを探しなさい。どんな景色になろうと、わたしはこの村に暮らし続けよう。さあ、遠くへ。」
ゲロガメは持っている中でいちばん大きなカバンに、持っている大切なものをできるだけ詰め込んで、はじめて1人きりで電車に乗りました。村のみんなと離れるのは怖かったけれど、それぞれに、幸せを探しに行こうと約束したのです。はじめての1人は全てが新しく見えました。村のばあばと乗ったことのある電車も、道行く人々の顔も新しく、ゲロガメの心を締め付けます。向かう先は決まっていません。ただ、幸せを探すための旅に出たのです。ほんの少しのワクワクに身を委ねて、ゲロガメは電車に揺られて村を飛び出しました。
大きなカバンを抱えたゲロガメは、“都会”と呼ばれるところに来ました。全てが知らないものばかりでしたが、村で見た事のある、綺麗なお花を見つけました。ユラユラと揺れる、大きな見覚えのあるお花。近づいて見ていると、なんだか村で見たものとは違っているようです。
「これはね、とても珍しい花なんだよ。」
気がつくと、隣に見たことの無い帽子とジャケットと笑顔をした、おとなの人が立っていました。
「うちの村で見たことがあるお花なんだ。」
ゲロガメが答えると、おとなの人は笑いながら言いました。
「遠くから来たんだね。ここではお花を見るのに、お金が必要なんだ。この花はとても珍しいからね。君のお金で足りるかなあ。いくら持っているの?」
ゲロガメが大切なもの中からお金を取り出して、おとなの人に見せました。
「足りますか?」
おとなの人は困った顔をして、そのお金をサッとポケットに入れたかと思うと、大きな声で叫びました。
「足りねえんだよ、舐めてんのか!」
その後も、何か大きな声で叫んでいましたが、ゲロガメには解りませんでした。大切なものは、ここでは大切ではないようです。大きなカバンを抱えた自分が、とても惨めで格好悪く感じます。おとなの人が一通り叫び終えたあと、怖くなったゲロガメは、持ってきた大切なものをたくさん捨てました。大きなカバンには、村の朝日を撮った写真と、出かける時に摘んだ木の実だけが残りました。
食べるのにも、眠るのにも、お金が必要です。仕事が必要です。ゲロガメは強ばった心をなだめながら、仕事を探すことにしました。多くの人たちは、大きな空っぽのカバンを抱えた、甲羅を背負った蛙のようなゲロガメを見ると、何も言わずに首を振ります。やっとの事で仕事を見つけたゲロガメは、賑やかな通りにある、食べ放題のイタリアンレストランで働くことになりました。そこには、羽の生えたゴリラや、トマトのようなヤモリや、トウモロコシのような何かが働いています。ゴリラは羽を隠すようにサラシを巻いて、ヤモリは顔だけ白く塗り、トウモロコシはトウモロコシでした。ゲロガメは甲羅が当たって迷惑をかけないように、甲羅に明るい色を塗って働いています。
ゴリラはバンドマンでした。ライブ中は羽を伸ばして歌を歌い、DeathGorillaというバンドの天使ちゃんと呼ばれていました。ヤモリは大学生です。いつもキャンパスの気になる子の話をして、うぶ毛やヘタの緑色を気にしています。トウモロコシは小説を書いていました。読んでみて、と渡される小説は、今まで読んだ本の中で一番読み進まなくて困ります。
ゲロガメは、出かける時はうさぎの耳を模したカチューシャを付けるようになっていました。その方が、みんなが優しくしてくれます。困っていると助けてくれます。愛らしい瞳も人懐っこい笑顔も、ここではやっぱり、大切ではないようです。ゲロガメは、強く、強くなりたいと願います。イタリアンレストランで働きながら、たくさんの事を知りました。オハナという素敵な人と出会い、別れたりしました。もう、懐かしい綺麗な花に近づいたりしません。あれは、作り物だということも知っています。大きなカバンは部屋の隅で折りたたまれたまま、村の香りを残していました。
ある日、懐かしい風景が描かれた一枚のハガキが、ゲロガメのもとに届きました。村長がもう長くはないようだと書かれています。大好きな村長に一目会いたくて、ゲロガメは住んでいる部屋を飛び出しました。まだ明け方の薄暗い時間でしたが、もう電車は働いています。朝焼けの空が移り行くのを眺めながら、ゲロガメは懐かしい景色を思い出していました。村長は、ゲロガメが生まれた時から村長でした。そしてこれからも、村長なのだと疑ったことがありませんでした。落ち着かない心は、電車の中であっちへこっちへ揺られています。
村に着くと、もう宴の準備が始まっていました。懐かしい顔や、初めての顔もありましたが、それぞれに「おかえり」と声をかけてくれました。村長は、眠っていました。本当に、眠ってしまったようでした。
その日は一晩中、みんなで歌って踊りました。村長が好きな曲を思いつく限り、それぞれに口ずさんだり体を揺らしたり、村長の真似をするおちゃらけもありました。みんなそろそろ疲れてきたころ、一人が“幸せ”の話を始めました。
「とても大きな虹を見つけたので、その麓に向かったんだ。虹を体いっぱいに浴びながら、虹の上に寝転んでしまって、しばらく見つめ合っていたよ。」
「ひとり、ひとり、とたくさんのひとりとお話をしたよ。音楽や映画の話を。見渡しても足りないぐらいの話があるんだ。」
「ずっと手を振っていた。この間は逆さまになって手を振ってみた。おかげでこの通り、立派な手になったろう。」
みんなが口々に始めた“幸せ”の話は、どれも興味深く、可笑しくて、とっておきの幸せでした。ゲロガメは、自分の番が来ないようにと願っていました。この村を出てからのたくさんの一日を思い出してみましたが、みんなに聞いてほしい一日はいくら考えても思いつきません。いったい何をしていたというのでしょう。毎日、一生懸命に生きました。イタリアンレストランも、恋人と暮らした生活も、大きなカバンからたくさんのものを捨てたあの日から、ゲロガメは気がつくと一生懸命でした。それなのに、今、みんなの話を聞いている、今が、一番幸せなのです。いつからでしょう。今だからでしょうか。村長と、もうお話ができないというのに、今なのでしょうか。
ゲロガメはポロポロと涙をこぼしながら、村長のことと自分のことを行ったり来たりして、よくわからない話をみんなに聞いてもらいました。みんなはじっくりと耳を傾けてくれます。それがとても、幸せに感じるのです。今度はワンワンと泣きながら、村長とよく歌った歌を歌いました。みんなも歌っていました。笑っていたり、泣いていたり、同じ歌を歌っていました。
翌日、村長を見送ってから、みんなは“幸せ”の元へ帰っていきます。ゲロガメはそれを村から見送ると、残った少しのみんなとぼんやりと数日をすごしました。村に戻ることにしたのかと聞かれても、曖昧に返事をしてぼんやりとすごしました。
何度目かの朝が来て、ゲロガメは大きなカバンを取りに戻ります。初めて一人で電車に乗った日とも、村に帰ったあの日とも、違った景色でした。一生懸命が詰まった部屋からゲロガメのものを運び出します。気に入っていたはずだったソファも、頑張って買った冷蔵庫も、大きな画面のテレビも、誰かに使ってもらうことにしました。村には必要がない気がしたのです。この時のことは、本当はよく覚えていません。部屋の隅から取り出した持っている中で一番大きなカバンは、やっぱり一番大きなカバンで、村の朝日を撮った写真はくしゃくしゃで、木の実は真っ黒い丸になっていました。それでもゲロガメは、捨てずに持って帰ろうと決めます。やっぱり大切だったのです。
村に戻ると、心が急に軽くなりました。軽すぎた心はなかなか大変で、しっかり持っていないと空の上まで飛んでいきそうです。そよ風にも飛ばされそうな心をしっかりと見守りながら、ゲロガメは前を向いています。今度みんなが集まるときは、「おかえり」を言いたい。ゲロガメの誕生日には、みんなにパーティーの招待状を送ろうか。水平線から昇る朝日をのんびりと眺めています。
ゲロガメの大冒険はまだまだ続くようです。これから、どんな出会いや発見が待っているのか、ほころぶ笑顔のゲロガメは、なんだか幸せそうです。
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